SSブログ

第161回 正義と悪について [授業・雑記]

 さていきなりだが、この世の中に絶対の正義や悪は存在しないと最初に言っておこう。(こういう話を知っている方も一度覗いて見る事をお勧めする。さらに理解を深められたりする話にしているから。) 普通この世の中では正義や悪の定義が普通に自然に行われて見られているのだが、この定義付けは世界から見たものと個人で見たもので分かれている。世界で見たものは時代の勝利者の定義で、個人の場合はその時の立場による定義である。

 分かりやすくするために個人での定義から話し始めるが、この正義と悪については個人の中(現在おかれている状況下)では、自分が正義で他人が悪という定義になるのが一般的である。まあ要は、1つの集団が行う行動を自分達の目線で見ればそれが正義で、それを批判したり対立したりする集団を悪という見方になるという事だ。ここでポイントだが、この悪とされた集団もまた自分達目線で見るとそれは正義で、最初の集団が示していることが悪だという見方で見る事になる。つまり個人によるその時の状況下で見ると、正義という言葉はどちらにもあり、また悪という言葉もどちらにもあるという事が分かる。要するにどちらの集団も互いの個人主観で物事をとらえれば、正義でもあり悪でもあるという事になる。
 次に世界から見た正義と悪の定義だが、これは先にも述べたとおり勝利者が正義で、敗北者が悪という事になる。 昔の言葉にも「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉がある。つまりどんなに個人の内で正義を掲げていたとしても、戦いに負けた瞬間世界から見ればそれは悪であると決められるというわけである。 たとえ個人や集団においてどんなにあくどいマネや行動をしたとしても、勝利すればそれは全て正義の行動にされるという事だ。逆にどれだけ良い事をしていたとしても負けてしまえばそれすらも悪の行いにされてしまうという事でもある。 例えば今の世界では、略奪行為などは悪の行いとされているが、それが相手が悪でかつそれを行う事で救われる命があるのであれば、その略奪行為も正義という事になる。(革命や一揆が例としてあたるな。市民から見た悪の政治家や領主の物を奪いそれを市民に振り撒いて多数の命を救うことが出来れば、それは正義の行いとされるという事だ。もちろん成功した時だけだが。失敗すれば普通に賊軍扱いだが。) 良い事をしても負ければ悪の行いというのは、ぱっと考えると分かりにくいが、例えば宗教団体などが分かりやすい例にあたる。1つ1つの宗教団体では人々に救いの教えを導く事が多い。その行為自体は良い事であるのだが、それが気に食わない宗教団体から見ればそれは悪の行いである。なのでその宗教団体を潰す行為等をして、世界から見てこちらが正義の宗教団体とみられるようにしたら、たとえ相手が良い事をしていたとしても悪の行いにされてしまうというわけである。 そしてこの正義を司る宗教団体がまた別の宗教団体に負けた時は、その正義が悪にされてまた別の正義が出てくることになる。 というように、正義と悪において絶対という言葉が無いという事になる。 さらに続きを言うと、この悪と最初にされた存在に勝利した存在が他に負けて敗北者になった時、最初に悪とされた存在を今勝利している存在がその行為を正義として見ればまた悪から正義へと変わるという事でもある。 この事から見ても世界における定義上でも絶対の正義と悪は存在しない事になる。

 常日頃古今東西この世界の人間の争いでは常に正義と正義の悪と悪の戦いであったと言えるという事である。つまりどちらの側にも正義があり、どちらの側も対立相手を悪と見るという認識があるという事である。これでは分かりにくいかもしれないが、今世界では国際連合が世界の安定を保とうとしているな?それに属する側が見ればそれは正義の象徴であるという事だが、それと対立する組織はこれを悪と見て行動を起こしているのだ。つまり対立する側から見れば国際連合が行う事は悪い事で、自分達の正義を通す為には倒さなくてはならない相手になるというわけだ。もちろん国際連合側から見れば、自分達を悪とみなして攻撃してくる者達こそが悪という認識で行動を起こしていく事になる。 今の世界問題で分かりやすい例は、イスラム国だろう。彼らは自分達の独自のイスラム教こそが世界の唯一の教えと信じて、それ以外の教えをする存在はすべて悪の道へと人々を落とし込む悪い事だという事で行動を起こしている。だからイスラム国は自分達での行いを聖戦(ジハード)というのだ。(正義の教えを世界に広める為の戦い。)そしてその教えを知ろうとしない者達全てを悪とみなして攻撃している。 今日本の人々はイスラム国から見れば悪に分類される国際連合側にいる為、このイスラム国が悪だという見方で見ているが、結局は戦いが続く限りはどちらも同じという事である。どちらかが勝利を収めなければ、世界の悪と正義の定義は定まらないのである。(国際連合側が勝てば、それは国際連合側の行ってきたことが正義。イスラム国が勝てばイスラム国の行いが正義となる。)今この地域では3者による戦いが繰り広げられているが、見方は特に変わらない。勝利すればすべてが正義の行いとなるのだから、最後に勝利さえすればよいのだから。

 この話の中で少し違う話になるのだが、正義の中にも悪は存在して逆に悪の中にも正義が存在したりする。これは完全な個人同士の間では存在はしないのだが、集団を1つの正義と悪に分類した時には、どちらにも逆の存在が出現するときがある。すごくわかりやすい例で言うと、警察という存在は悪や罪を裁く正義の存在であるというふうになっているな?しかしこの警察の中から1人が悪さをした場合は、正義の中に存在する悪という事になる。また逆に犯罪集団があったとして、その集団の中から1人が人助けを行っていればそれは悪の中の正義という事になる。つまり正義と悪を集団で見た場合、一概にすべてを正義と悪で区別させることが難しいのである。 国同士であれば、たとえ世界から見て正義と悪に分かれようとも戦闘を行う者とただの民間人では区別が違うだろう?これが正義の中の悪や悪の中の正義であったりするのだ。 つまり集団でこの定義を与えようとしても、全てに当てはめることが出来ないというのが真相になる。

 ちなみにこの今までの話の内容でも分かると思うが、「正義は必ず勝つ」という言葉は、勝利した時点でそれが正義という分類にされるため、必ず勝つという言葉が当てはめられるのである。(だってどちらも自分達の正義を掲げて戦うのですから。)


 今回は少々難しい話になったが、言いたいことは誰もが簡単に正義を掲げられるという事だな。掲げるだけなら誰でもできる。周囲に認めさせるならば、悪とされる存在に勝利すればよいだけである。(自分が定める悪の存在に。)だからこの世界の人々は簡単に掲げられる正義で戦争を簡単に始められるのだ。自分達の理想の正義を周知させるために。 つまりこの世界に正義と悪の定義がある限り、戦いは無くならないという事でもあるな。 それではここまで見ていただきまして誠にありがとうございます。
 正義~終了~悪











 さて最近暴言仲間がなりを潜めてきたな。ドゥテルテ大統領は特に強い発言(ちなみにこの正義と悪の観点から言うと、暴言交じりの発言や犯罪者を皆殺しにする行為は世界から見て悪だとされているが、国民からすれば自分達の平和と安全が守られていく行いである為正義とみなしている。)は報道されてないし、トランプ氏は優等生に生まれ変わったみたいだし。しかし私は続けますよ。この理論的暴言王オウカハルはたとえ願いがかなう時が迎えたとしても、それらが全てかなう時でさえもこの態度は変える気は無いですからね。少なくとも私が生存する限りで世界が平和に導かれる事は無いでしょうから。(何も分かっていない政治家が多すぎるのでね。世界全体で。) 近々別のタイトルで発表しますが、資本主義と共産主義がもたらした世界の仕組みの崩壊を解説していきますよ。 これらの主義はもう世界を崩壊へと導く主義でしか存在しなくなっていることをね。 だってどちらの主義も大きな欠陥があるのですから。そしてそれが世界を狂わしている要因の1つでもあるという事です。(まあ以前に載せたこの両主義の破壊の拡大版ですかな。(確か15回ぐらいに出したかな?)) Final
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0