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第1051回 弓”道”とは… +公共交通の安全の確保の形 [授業・雑記]

 さてちょっと意味深な内容の回を今回は話して行きます。 以前に話に出したスポーツ競技としての弓道の形に深く関わり、礼節の弓道だけでは神髄へと至れない事に対する深みの話で、それは弓道の例えから話しますが、基本的に全ての〇〇道に類する物にも通ずる話になります。 物の本質を見極められなければ、その道としての神髄であり本質の境地に至る事は出来ない。 現状は今の定義付けがそこに辿り着く為の最大の障害になっている。
 ただし、今のやり方を否定する気はありませんよ。神髄であり本質の境地に至る目的が無ければ、必要の無い話ですからね。エキスパートのさらなる上位へ目指す気が無ければ意味のない話ですからね。

 さていつもの如くな時事の話ですが、本日の話では夕方のニュース番組の関西のten.にて、電車の脱線事故の話からの電車の安全性についてと、飛行機の世界的なパイロット不足からの安全性とパイロット確保が必要だという話をやっていましたが、本当に安全を確保しつつ安全な交通網を不足させる事無く運行させようというのなら、そこに人は不要な存在です。
 人がその運行の現場にいるから安全を限りなく100%に近づける事が出来なくなっているのですよ。
 人に任せる限りでは、疲れや突然の異常事態の発生などは避けて通る事が出来ない事であり、ベテランになっても過信や慢心に突然の異常な状況対応能力としても個々のバラつきが発生して、確実に近い安全を確保する事は人に頼る限りでは永久に不可能と言えるでしょう。
 人はどこまで行っても不完全な存在であるという事を認識した上で安全の確実性を考えるのなら、不確定要素が多すぎて個々の能力のバラつきの激しい人をメインに据えるよりも、AIを機械を無人型をその人材枠において、パイロットや運転手にメンテナンスまでも含めてほぼ全てをAIと機械に任せて交通における無人化を図って行く方がよほど確実な安全性の確保に繋げていく事が出来るでしょうね。
 AIで機械であるならば、能力のバラつきは基本的に存在せず(メーカーや国が違うのなら別)、人が起きうる不確定要素な異常事態も基本的には発生せずに、過信や慢心なく基本に忠実に安全確認のメンテナンスが行えて、同時に運航においても一定の信頼性を確保させる事が可能です。 ついでに機械ならば人材の育成なども不要で、いくらでも数を増やせますからね。(人を育てていくよりもよほど安価に。)
 それでその状況下で、サブに人かロボットにおける遠隔操縦でその乗り物とは別系統から行なえる遠隔操縦の仕組みに出来れば、乗り物のAIに異常が発生しても代役を務めさせる事も可能となる。
 本当に安全を守り抜きたいのなら、そこに人の存在は邪魔なのですよ。メインをAIにおいてサブを人にするという今と真逆の形に切り替える事が出来なければ、安全の確実性へのスタートラインに立つ事は出来ないと言えますね。

 そしてこの話は普通の車における交通の話でも同じような事が言えて、大体の交通問題は全部人絡みで発生する物事ばかりなので、運転におけるメインとサブを切り替えていく事が安全性の確保に繋げて行ける話になります。 AIが故意にあおり運転とか飲酒運転にわき見運転居眠り運転なんて行う事すらできませんしね。 全部要素は人に行き着きますからね。
 ちなみに、昨日辺りか母子が殺された車の暴走テロに関しての被害者遺族の男性の話の中で、「少しでも運転に不安のある高齢者は運転を止めるようにしてください。」という話がありましたが、その言葉には何の意味もありません。
 だって主にこういう踏み間違い等での無差別テロを引き起こしている高齢者運転者のほとんどが、「運転に自信がある」人ばかりであり、運転に自信があるという過信や慢心によって自分は平気だと思って、自分の本当の実力に気付かぬまま運転を続けて、無差別殺傷テロを繰り返しているのですから、あえて言うのであれば、「運転に過大な自信のある方は直ちに免許を返納してください。」という言葉に変えた方がよほど的を得る言葉になると思う。
 自分の本当の実力に、自分の運転に対する不安要素等を考えられる人が高齢者でもその意識をもって運転して良いのであって、完全に不安なら免許返納で、自分の運転の力に対する衰えを全く自覚できない人も返納するべきである。それ自体が老化による思考能力の衰えの最たる証拠という事であるのだから。 つまり運転に自信があったり自分は優秀だと頑なに思い込んでいる高齢運転者は、その思考行動自体がレッドラインを過ぎているという事である。
 代わりに、その時点で自分の運転能力に対する衰えの状況を正しく理解出来る人は、その状況を自分でも見極めながら運転を続けるか否かを常に考えながら行動して行けば良い。 まあその人の状況で、周りが運転レベルに不安があると感じる状況になったら即座に止めさせる形程度がベストかな。 現状把握が出来ていない高齢者は既にボケが始まっている証拠である。その状態で運転させたら必ず大事故を引き起こすでしょう。

 それでようやくタイトルの始めの本題の話をしていきますが、私は前の話のAI搭載の運動施設にて、礼節や作法が重要視される弓道ではなく、弓本来の競技の形のスポーツの形を作りたいという感じでもあの話をしましたが、今の弓道の礼節作法における精神が大事だと思っている人にこの思いは全く伝わらないのでしょうね。
 まあその状況は分かりますし、礼節を重んじる弓道の形は理解できますが、本当に弓道の神髄の本質に至る為の礼節なども含めて考えようとするならば、今の形では決定的な事柄が外されているが為に、そこに永久に辿り着く事が出来ない状況にされています。
 それは弓本来の形を、弓本来の物としての気持ちを無視した形で、弓を弓道として単なる礼節や作法の重要性を知る為の道具として扱っているからです。
 いかに弓道において弓を大事に扱おうとしても、それが弓道の形における形で弓を日本の和の礼節や作法を知り高めていく為の道具として位置付けている限り、その弓における神髄であり本質の道に至る事は出来なくなっているのです。
 礼節や作法ばかりを重んじるがゆえに、その弓という物が何を元にして作られ、何の目的で扱われてどのような人との繫がりの位置にいるかを考えられた人はいるでしょうか? それは今の弓道の形からは絶対に知ることが出来ない弓の存在の本質です。
 AI搭載の運動施設の弓道版でも少し話しましたが、弓という物は本来の用途として、狩猟用の獲物を狩る道具や戦争における武器として用いられてきましたが、そのどちらにおいても共通する弓に対する心構えという物があります。それが、その弓は相手を倒す為の武器であり自分を守り生かす為の洗浄におけるかけがえない相棒(パートナー)であるという事です。
 その弓を用いて弓の力を最大限に扱って相手と戦い倒して行く戦友の形による重要な相棒であり、命を懸ける存在としても弓の形は存在していました。これは弓に限らずその他の剣や槍等に関しても同様で、それを大事に扱って共に戦場を掛ける重要な相棒としてその存在を駆け抜けてこられる人が、その武器における神髄や本質の道に至れて性能を最高に発揮させて強さを上げて行けたのです。
 つまり自分の命を預けて共に戦いの舞台で戦って行ける相棒として見る事が、その武器の神髄や本質に至る存在に値する状況になるという事で、礼節や作法の為の道具として扱っているだけでは、本当に弓の神髄の道に至ることは絶対に出来ないと言えるでしょう。
 現状今の弓道においては、弓の道というよりも、弓を用いた日本の和の伝統や歴史への礼節や作法を覚える為の道であり、弓道という事は本来の意味合いからはふさわしくない言葉に該当すると思われます。 弓道と言いつつ弓はただの道具でありそこまで関係のない物として扱われるのなら当然ですよね。現実的に弓道の試験なども弓の腕前や実力よりも礼節や作法の方を重要視されているというのでは、弓をただ礼節や作法を学ぶためだけの道具として利用した本当の弓道においては穢した形ですからね。 まあ和の伝統や歴史を学ぶための道具として使う弓道で良いならばそれでも全然かまいませんけどね。(それは真に弓の道ではありませんがね。)

 そしてそれにおける道の形は、その物を礼節や作法などを覚える物の為の道具として位置付けているかどうかによって変わってきます。
 剣道などの本来の用途が武器であるのならば、弓道の精神の形と同じで、それを共に戦場を駆け抜けて命を預けられる最高の相棒だと思えないのならば、その精神の神髄であり本質の道に至る事は出来ないという事であり、華道や茶道などの本来の要素が楽しませたり見せて喜ばせる物であるのならば、その物の本来使う用途においてその形を深く知って、何が大事であり大切な事なのかを学んだうえで、今の道とも融合させていく事が神髄であり本質の道に至って行く事が出来るようになる。 それを礼節や作法の為の道具として見ている限りでは、永遠に本質に至る事は出来ない。
 華道においては、花の生育に携わりその花々たちとの成長と生き死にの形を見極めて、その花々において何が本当に大事で必要となるのかを知り得る事が出来なければ本質の華道の道には至れず、茶道においても1からその扱うお茶を作り出して行き、お茶における本質の用途の形において何が大切であり大事なのかを理解した上で、それを扱っていく形に出来なければ、本当の神髄や本質の茶道の形に至って行く事は出来ないという事です。

 現状今の道においては、和の伝統や歴史における礼節や作法の形が重要視されて、本来知る必要のあるその物たちの本質を無視して、ただの道具として扱っている状況では、本当のその道々の神髄や本質に至ることは永久に出来ないという事です。
 その道具として使われている物の本来の意味を知り学んで確たる自分の相棒的な状態として共に進める状態でなければ、その道の本当の神髄や本質に至る為の道の入り口にすら立つ事は出来ないという事ですね。
 現状はその道具を媒体として、それらの道と言いつつ礼節や作法を学ばせる為だけの事柄に置き換えられている。 だからそれらにおける最終到達地点に至ることは誰にも出来なくなっているのである。
 まあ礼節や作法を学ぶためだけの用途の道具としてだけで用いて行けば良いというのであれば、別段今のままでも全く問題ないし、それらにおいては非常に良い形であるとも言えますね。 だがしかし、それらの最終到達地点には至る事が出来ないというだけでね。

 だから私は本来の弓のあるべき形である弓道の競技という物の話で話したわけですね。
 大事という言葉の意味が、礼節の弓道と戦場での相棒の弓道では全く違うという事です。


 それではここまで見て頂きまして誠にありがとうございます。
 弓道の本質~終了~公共交通の安全





























 ちなみにそういう道においては、物作りや料理人たちの職人さんたちの方がよく知っているのではないでしょうかね? 何がその道において深く大事な存在であるのかという事がね。基本的にその道に進めている人達は、その道に至る為に共に進んでいく相棒として何を大事に思って進んでいるのかを理解していますからね。 そこにこそ職人道がある。 技や技術だけでは先には進めないのですよ。 END
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