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第1090回 時事雑記「1人自殺?・組体操ピラミッド・無人運転電車」!閲覧注意! [授業・雑記]

 さて時事的な話などがいくつか溜まったので、まとめて爆弾行きますかね。
 ちなみに順番は話の内容が軽い順から行きますけども、大体右順ですね。 ちなみに自殺するなら1人で死ね論争に関しての話は、全く別の視点から話を展開して行くので、要注意です。(普通の批判派とは一味以上に違う。1人の定義だけを見ると、とんでもない状況でも1人で死んだことになるのですからね。それが良いと言えるのか?という感じで。)

 というわけで今日はそのまま行きますけども、まずは神奈川辺りで発生した無人運転電車の逆走事故に関する話からですけど、無人運転の電車が逆走して車止めに接触して複数人の怪我人が出たという事故に関する話で、問題の本質がまだ見えていなくて、専門家たちの話ではおそらく進行方向の向きの切り替えの信号がうまく動作しなかったから起きた現象ではないかという話が出ていたのですが、それが真実であればとても簡単な方法でその現象を回避する事が可能です。
 要は信号の切り替えを人間からなりの指令式で伝達できなかったからという現象であるならば、その切り換えの信号方式の仕組みを事故防止の観点も含めて、終着地点の壁にセンサーを取り付けて、そのセンサーを無人運転電車が一定範囲内や近くで止まり次第自動確認させる形式にして、そのセンサーがある方向には進めないようにさせるというシステムに組ませる形にすればよく、さらに対策を考えるならば、車にも付けられている対人や対物用のセンサーを取り付けさせれば、普通に接触回避に繋げさせられると思うのですけどね。
 要はそういう安全対策疎かにして無人だから何も起きないとか完全に1つのシステムに頼り切りにしていたからの状況ではないでしょうかね。どんな時でもサブやバックアップ用のシステムは必要だと考えますね。
 もしくはもっと簡単な感じで、電車がその終着駅に辿り着いたら、壁の方向には絶対に進めないように電車が進めるシステムでの線路上からそこを固定化させてその方向には全く動かせないようにさせれば、誤作動などを起こしても電車はその方向に動けない状態で止まり続ける形になるので、事故回避などには良い形に出来るでしょうに。
 このように回避方法はいくらでもあるのですが、その安全対策の為のお金を使ってこなかったからの今回のような事故状況だったと言えるのでしょうね。 なんでも1つだけに頼り切ろうとすると、その内痛いしっぺ返しを受ける事になる事がとても多い。

 さてお次は今朝の情報番組のビビットでの放送内容から組体操ピラミッドの危険性の話が出ていて、大阪等の近畿地方などは特に運動会などでは子供の命よりも親の感動の方が重要と考える児童虐待の精神が根強いと言えるような状況になっているようですね。
 さてここから危険度高めな話になって行きますけども、組体操ピラミッドというのは、スポーツ系の学生以外にやらせようとしたら、それは児童虐待や体罰にいじめと差別に繋がるマイナス面ばかりしかありませんね。
 それで子供が苦しむ様を親等の大人たちが見て喜び感動するなんて、公然児童虐待としか思えない惨状に私は見えますね。
 番組で出てきた専門家等も時代錯誤な伝統とか体育大学でも5段までが限界なのに、普通の所で6段までさせるなんて無茶だとか言う話が出て、コメンテーターの1人も苦行であるという感じで言っていたりしましたが、組体操ピラミッドというのは1人を輝かせる為に多数の人を踏み台の犠牲として扱うという今の資本主義の形を見せている内容であり、それであるのにOne for all,Aii for one(1人は皆の為に、皆は1人の為に)という言葉で美談のような形でまとめようとしているのだが、こと組体操ピラミッドにおいては、楽しいのは上に上がる1人か3人だけで、後の下にいる人達は単に足場を強制されて苦しい状況でひたすら耐えなくてはならず、さらに上が崩れた場合は上を助ける為の犠牲にされる事も多く、とても先の言葉のような状況ではなく、頂点と奴隷たちの構図にしか見えなくて、その足場にされている人達には特に良い事は何もなく、見せ場は全て上の人に持って行かれるだけなので、子供の運動会においては下の子供達に対する児童虐待行為でもあり、先生や親等の大人が無理やりさせているいじめや体罰に等しい状況でもあると言えるのです。
 さらにそれで体が大きい人や体重が少しある子供は例外なく下に置かされて、そこの位置を強要されるという差別を負わされて子供の精神を傷つける行為にもなるので、マイナスしか見えない子供を苦しめる為だけの物にしか見えないというわけですね。
 それで親たちの感動だとかを優先して伝統を残すべきだとか、公然児童虐待したいからの方便にしか聞こえませんね。
 ついでにあの状況は、好きでもない形で子供を這いつくばらせて、それを大人が見て喜ぶ状況は最低の一言に尽きませんかね? 報道内容でも出ていましたが誰の為の運動会なのでしょうかね?
 子供は学校を良く見せる為の使い捨ての道具だとかいう状況なら、その学校に教育者としての資格は一切無いと言わざるを得ませんね。

 それで学校側や教育委員会などは協調性を養うとか馬鹿げた事で正当化させようとしているバカなどもいるようですが、あの強制的に従わせている虐待のどこに協調性を養う要素があるというのでしょうかね? そんな虐待を行なうぐらいなら、団体行動やら劇なんかを運動会で行なわせた方がよっぽど協調性を養う形に出来るのではないでしょうかね? あとはダンスや複合のミュージカル風な方がよっぽど子供たちにそれぞれの役を与えての協調性ある行動を養わせる事が出来るのではないでしょうかね?
 支配者と奴隷たちの学園カーストの様を組体操ピラミッド形式で強制させるよりよっぽど良いような気がするのですがね。
 学校での伝統だなんだというのなら、教育勅語は残した方が良いという気なのでしょうかね?それと同類の話ですよ。

 それで最後はその話より恐ろしい神奈川県での自殺目的児童無差別殺傷事件の犯人等に対してネットで飛び交っている「自殺したいのなら1人で死ね」問題での是非のバトル論争の話なのですけども、昨日のMr.サンデーで代表者2名での話し合いが行われていたりしましたが、両者の言い分はまあ大体平行線で、どちらも自分の信条の下に正しいとしている人達の論争合戦という感じになっている状況に見えますね。
 まあお互いの言いたい事は理解できますし、その問題発言の内容自体に社会的な間違いは無いのですが、それをネット等で大々的に言うのはどうなのか?という感じの話ですよね?
 まあその問題発言は私目線で感情的な言葉に見えるのですよね。私が状況的には、今回の事件の犯人側の存在(私も人としては壊れていますからね。子供時代に大人たちからの救済は無くて心が壊れた存在ですからね。もうどんな心理カウンセラーでも私を癒す事が出来ないほど壊れているのですよ。完全に壊れたら直す事は不可能である。傷ついている状況ならまだ直す事は出来るかもしれないけどね。)であるから言える言葉なのですが、「自殺したいなら1人で死ね」という言葉は、社会からお前は用済みだという差別的発言に思えてしまうのですよね。つまり社会から排除されるような言葉に見て捉える事が出来る。誰もその存在を救おうともせずにいらなくなったから用済みとして捨てようとする言葉に受け取ることができ、それはすなわちその言葉を発せさせて同調する人が多くいる状況でのその社会に対する深い恨みを発生させてしまう事に繋がる危険性が高いという事である。 だからそれを危険視して発言はなるべく控えてくれという形で言う人たちもいるという事になる。

 ただ先の問題発言は、1人で自殺するのであれば、社会的に良い事だと受け取らせる事も出来る内容であり、自殺を容認する言葉にも受け取る者が出てくるな感じも見え、1人で死ぬのならどんな形でも1人の直接的な犠牲の形であればよいのかという形で考えると、電車の踏切に入って電車に轢かれる形や道路上での橋の上から飛び落ちて車に轢かれる形や学校の屋上等から皆が見ている状況で飛び降りて無残な自殺で終える様な状況は、全部1人で自殺するという言葉に該当するが、周りに与える影響は事件とあまり変わらない程度かむしろ影響度が酷い状況になる可能性も高かったりするのだが、それでも1人で自殺の方が良いと言えるのだろうか? 学校の屋上に立って、爆弾持って全校生徒が見守る状況で、突然爆死して地上に落ちるような状況を見せつけるような形でも1人で死ぬという言葉に該当する事となり、その悲惨な状況での周りの影響度は今よりも酷くなると断言できるのだが、それでもその方が良かったと言えるのだろうか?
 そしてこういう事を私が言ったら、少し発言内容を変えて、「自殺したいなら誰にも分からない場所で隠れてひっそり死ね」とか言う言葉に変わるのだろうが、それは完全にその者達を救済する事はなく社会から見放してしまう発言に完全に受け取れる状況となり、それによる社会に対する強い不満や恨みを発生させてしまう事となり、帰ってその恨みから無差別系に発展したり、また新たなオウム真理教のような国産テロリスト集団を生み出して行く事になるのでしょうね。
 それは現在社会的地位を持っているお金を持つ人たちと何らかの事情で自殺を考えていたりする人たちを決定的に分けさせる事となり、そこに大きな分断は生まれて、社会構造的な対立軸が発生する事により、貧困者や社会に恨みを持つ人たちでのテロリスト集団が発生して行く要因となる。
 それは既に世界の構図で普通に起きている現象であり、日本でもそれを起こそうとするのか?という話でもある。

 結局それらを止めようとしたいのなら、社会がそういう自殺したい人たちの苦しみを理解して、自殺しなくてもこの社会などで生きて行けるような形に支援していく必要があるという事である。
 つまり新たに活躍できる場所や心休ませられる場所に貧困を無くして行けるような社会の形が必要という事ですね。
 それらの実現は並大抵の努力では到達できないが、そこを目指せなければ、後に残っているのは自爆テロの頻度増加か国産大規模テロリスト集団の誕生か日本内戦の勃発の形ぐらいですかね。
 仲良くなれる可能性のある人たちを完全に社会からつま弾きにしようとしたらそうなるという事ですよ。 それはいつの世も戦争を生み出して行く言葉であったというのに、最近の日本人は戦争を人殺しをしたくてたまらないのでしょうかね? 「1人で死ね」という言葉は、思い詰めた人が見たら「お前を殺してやる」という言葉にしか見えないというのに。
 私のような心が壊れている者から見れば、それは自身に対する殺意の表れと受け取る事も出来るという事ですよ。 そしてそれを社会がそうだという形になると、社会が自分を救わずに殺そうとしてくるのなら、それに対して何をしても良いだろうという心象に変わる可能性が0ではないという事ですよ。
 大事な事はそれに対する前例ではなく、可能性の話であり、明確な殺意を人が感じたら、それに対して人はどう行動するのかという基本原理に立ち返って見れば、そういう確率を上げる事は止めておいた方が良いという事でもあり、1人だからと言っても社会に対して軽い事は何も無く、たまに起きている駅のホームから自殺目的で1人死んでいくような事でも、駅の利用者には多大な迷惑を発生させているのですから、自殺を煽るような発言は止めた方が良いという事ですね。
 それよりも社会でどうやってこういう人たちにも救いを与えて行けるように出来るのかという議論を強くさせた方が、予防と防止の観点では合っていると思われるのですけどね。
 自殺希望者を見捨てるのではなく、人助けできる方向に持って行くべきなのでは?
 苦しんで自殺を考えなくても良い社会の形の方にね。


 それではここまで見て頂きまして誠にありがとうございます。
 見捨てる事と救う事~終了~児童虐待の伝統





























 ちなみに私は完全修復不可能なほど壊れていますね。どんな世界的な心理的名医でさえも私を癒す事は絶対に出来ないと断言できますね。 完全に壊れた物を直す事は出来ませんからね。
 ただ私は現在オタクで精神保っている状態なので、そういう異常精神の犯罪者等の心が分かる状況で、まともを保っている状況にあるから、こうしていろいろ言ったりできるというわけなのですがね。
 ちなみに私のこの様々なアイデア性能は後天性の物で、壊れた後に手にしているから、普通とは違うアイデアが生まれてくるという事ですね。
 だから私は人として壊れているから自分の事を悪魔だとか平気で言えるというわけですね。
 ついでにまだ語っていない事はありますが、それはこの世界の常識では信じる事も出来ないような内容なので、語る気は永遠に無いという事です。ついでにそれがあるからこそ、誰も癒す事は出来ないのですよ。
 まあいいじゃないですか、完全に壊されたからこそ人を救っていけるようなアイデアも次々と生み出していけたのですからね。 ちなみに私も自殺を考えたりする1人というか、死に対する恐怖観念が無い状況で、いつ死んでも良いという気構えで生きています。
 まあオタクがある限りは、平和的考えでいますけどね。 END
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