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第2370回 そこまで委員会 哲学 答えの見えづらい現象 [授業・雑記]

 さて今回はそこまで委員会からの話ですね。哲学という明確な答えが見つかり辛い事などを追及して探して行く学問ですね。まあ理数系のように明確な答えが必ずある物と違って、世の中の大半は哲学的な物とも言えるのでしょうけどね。

 それで哲学論議としてテーマにされた物に関して、私もどういう物かを少し添えながら話して行きたいと思います。
 まずは日本等で未だに強く根付いている死刑制度についてですけど、死刑制度とは独裁者たちの気に入らない存在を国家の意思として殺せる制度ですよね?
 要は基本的に死刑制度を実行している国というのは、非民主主義で独裁者が君臨している国家に多いという事ですよね?国家として気に入らない者は好き勝手に殺せる権利が死刑制度ですからねえ?国民の総意とか言いつつも実行権は国が行なうわけですし、=国が気に入らない殺しても良いと言える存在を勝手に殺せる権利制度と言われても反論は出来ないでしょう?
 生かしておく方がまずい存在を勝手に殺せるというのは独裁国家にとって非常に都合の良いやり方でもありますしね。日本の場合は、昔が独裁体制で死ねと命令できる形で民間人の多くを自殺に追い込んできた事などがありますから、その名残で死刑制度の形が当たり前に感じているのではないでしょうかね?

 でも最近は死刑制度の意味も効果を無くさせている状況にあり、死刑という形が簡単にこの世の苦しみから脱出できる救いの道と考える人が多く出てきて、死刑になる為に他の人を多数殺したりする状況が出てきていて、死刑制度の形をある意味曲解しつつもこの世の苦しみから簡単に自分以外の意思で抜け出せる方法として捉えている者が出てきている以上死刑制度を維持する事は無関係の普通の人が殺されやすくなるような状況にも追い込んでいるという状況で抑止力にはならない状況になっていますね。
 それで終身刑を最高刑と変えた所で、この世の息苦しさからの脱出という意味では同じ事でしょうから、終身刑に変えた所で結果は同じというのが普通に見えます。
 故に私はそれらを見越した上で数年以上前から上限なしの年役制度の形から罪に対する反省を自分の意思で行なった行動状況により減らして行くという形を推奨しているわけですね。内容は罪の形において拷問にも近い物を用意するが、すべからく全員がそれを受けて拷問だと思う物ではなく、きちんと罪に対してその人から見たら拷問だと思う物の類を自分の意思で受け入れて耐える事によって罪に対する反省の意思が取れているという事での懲役日数削減の形で、反省しきれば釈放で反省できなければ無期懲役と変わらず刑務所での扱いも悪くなっていくという形にすればよいと言っているわけです。
 分かりやすい例としては、飲酒運転等をした人の前に目に見える形で缶ビールなどを用意して、好きに飲んでも良いという形にするけど、飲んだら反省していないという扱いと共にその日の夕飯が消えるという感じで、飲まずに耐えたら反省しているという証に出来るとかですかね?
 酒飲みにとっては何よりも耐え難い拷問ですが、お酒が好きではない人にとっては退屈な時間でしかありませんよね? ついでに時間終盤になって缶ビールの蓋が開けられて匂いが部屋の中に充満していく状況は、双方にとって真逆の天国と地獄になるでしょうしね?
 これを毎日のように自分の意思で耐えなければ外に出られず、無視し続けるといつまでも出られずついでに待遇も悪くなっていくという状況は、死ぬ事よりも精神的に強烈な苦痛となって味あわせられる形になるのでは? これやると100%鬼か悪魔かと言われるような感じの反省のさせ方ですよね?
 好きな物で自由にして良いと言われているのにできないという苦痛は好き者にとっては単純に死ぬ事よりも苦痛になると思いますけどね。

 そして次はコロナという感染症に関してですけど、こちらはコロナとは私は呪いのような物だと捉えますね。基本的にはパネラー陣の多くの思いと似たような物ですが、苦しみが降りかかりまとわりついてきて状況によってはなかなか解決できない物という意味においては周期的にやってくる呪いと私は捉えますかね。
 まあこの感染症という呪いのような物としては対処はかなり簡単であり、日中のように医療体制が国民全体からして脆弱な国では今でも苦しめられていますが、その他の国々で平気として捉えられているというのは医療体制が十分にあり、無症状は放置して普通の風邪と同じ扱いとし、症状で軽症以上は初期からきちんとした薬を含めた医療が受けられるようにして、等しく重症化させないだけの医療体制が万全に整っていれば恐れる事は全く無い感染症というだけですね。
 日本はその点で言うとちょっとした広がりだけでもあっという間に医療逼迫とか医療崩壊とかしてしまうほど今でも医療状況が悪いので、感染対策のあれこれが手放せないという形になっているだけですね。
 その辺は中国としても似たような物で、都心部などは良いけども農村部だと確実に死亡率が跳ね上がる事になりかねないので、あのような状況での形になっているわけですね。全部医療体制の状況によって判断されるというのが基本的感染症との対応の違いというだけです。
 日本は民間に任せ過ぎなのですよ。もっと国というか行政が管理できる病院を全体の最低でも30~40%程度まで押し上げないと基本的な感染症対策としては不十分だと思いますね。その上でその地区などでの20%ぐらいは感染者をまとめて見れるような医療体制は必要でしょうかね。
 無症状は無視して軽症以上の患者には必ず見つかった時点から治療が与えられる形の医療体制を基本とする形まで出来れば、今回のコロナなんてインフルエンザ以下の形に出来ますよ。
 無症状と軽症以上をごっちゃにするから簡単に医療崩壊にまでなるのでしょうけどね。普通の風邪でも無症状とか普通に無視ですよね? あれと似たような形にしつつ症状発症者にはきちんとした医療が受けられる形が必要というだけです。
 中国は、あと十数年は必要?その体制整うまで。

 お次は宗教に関してですけど、宗教とは人の精神的な心の支えという扱いでしょうかね? 人の自意識を認識させて己という存在を正しく定義付けさせる為に精神的な支えとなる物の1つが宗教という形にあると見て捉えますかね。
 故にそれは救いとか信じる道になって行く物であるという事になりますし、簡単に生きる事においての目標や頑張る形にも使えますからね。 だからこそ信じる心に対して付け入る隙を与えやすく、精神的支配にまで持って行く形を作りやすい物とも言える。
 寄付とかの形も信者たちからの物を寄付として捉えるのはどうなのでしょうかね?赤の他人から善意などで他者を救う為の無償の行為として行う形を寄付として捉えても良いと思いますが、宗教に関しては形は違えど商売に近しい物が発生していると考えられ、寄付と言いつつもそのお金は幸せを買う行為である事は基本どの信者も疑う事は出来ない物でありますから、それは形は違えど立派な商売の形であるとも思えてしまうのですよね。
 同じ関係に属している以上、寄付という無償の善意から来る物ではなく、宗教間での幸せを得る為に行なう行動の類は、全部商業の売買と同じ物ではないかとも私は思うのですよね。宗教寄付は寄付と言いながらもお金でサービスを買っているという行為ですからね? それを一般的な寄付と同じに当てはめて良い物か?とも私は思ってしまうわけですよ。

 最後に反社についてですけど、私は反社とは無法の存在であると共に一種の独裁政治の形での力こそが1つの法であるかのような体形で生活する人たちという認識ですね。
 基本的な社会は法律という形を政治で持って機能させて民衆の形で維持守っていく形から外れた人達には罰を与えるという形に思い、逆に反社会的とまとめて括りつけられた者達は基本的に表の社会とは別のルールや決まりで位置付けられていて、それを決めるのは純粋に力であり力こそが全てで決まりも作って行けるという形で作られた世界だと思います。
 表の社会はみんなの総意からなるべく位置付けられていく形に対して、裏の社会は1人でも力があればそこから勝手に決まりを作って行ける独裁に近いシステムで位置付けられているともいえ、双方は相反する関係にあるのは言うまでもないとも言えますよね。
 だからこそ世界も似たような方向で民主主義という皆で決めたルールを守って行こうとする国家集団と力こそすべてで力があれば勝手に決まりを決めてそれを他の奴らにも従わせればよいという独裁政治の形で利害関係が合えば協力する国家集団とで今分かれているのではないでしょうかね?
 そういう意味では似ているという事ですよ。そして日本国内等で存在する暴力団などは昔の日本の戦国時代のようなそれぞれの決まりを持って戦う者たちと思えばよいのではないでしょうかね?
 一応天皇という国の中枢機関はあれど、それぞれ勝手に自国の決まりを作ってそれが正しいとして行動していき時にぶつかり合いで戦争が勃発していたという形は今の暴力団の紛争と同じであり、暴力団などの1つ1つが小さな国家とか部族であると認識すれば、その形での状況もまた違ってくると思います。

 ただまあそれで一般社会に属する人たちが勝手な闘争などに巻き込まれるというのは、大きな国家間での戦争の形と基本変わらないわけであり、反社会的集団にはそれに合う土地と住む場所を与えてやって住んでもらった方が良い気もしますね。
 混ざりあっていては普通の人達が巻き添えを食っていきかねませんので、領土として国を分けるという形は狭い日本では難しいでしょうし、それならばやはりという所で地下の方に無法者達が集まり住む事が出来る場所を用意して、そこには日本の法律は当てはまらず力によって好きに決まりを作る事が出来るという形で基本的に何をしても良いという形で本当に好きに出来るようにさせる。
 そしてそこに住みたいと思う人たちは自由に住む事が出来るが、逆にそこから表の社会に入る時には厳しい審査が行われる形にして、国家という世界が違うという形での位置付けにさせる。
 そして表の社会で犯罪者になった者たちも望めばそこに行き住む事が出来るようにして、法治国家体制と無法治国家体制の2つを1つの国の中に作り上げれば、ちょうど良い感じに出来そうな気もしますけどねえ。
 基本的に住む世界が違うのだから分ければ良い。無法治国家だからと言って悪い事ばかりではないよ。国等に税金を納める必要はない代わりに全部自分の身は自分で守って頼れる組織等と上手に付き合いながら日々を生きていくという形になるだけですね。
 無法治国家は言い換えれば、国境のない世界とも言える状況ですね。好きな場所に行ける代わりに自分の身は自分で守る選択を常に選ぶ必要がある道だと。


 それではここまで見て頂きまして誠にありがとうございます。
 そこまで委員会~終了~哲学





























 大体好き勝手に上の方で補足付けて言ったからここは今回はなし。哲学の終着点は基本存在しませんしね? END
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